あなたの家の寝床を見せてください。 台湾本島全域、澎湖群島などの離島部、さらに福建省沿岸部、八重山・・・。 数百の寝床にふれ、植民地支配下で建築と家具の間に生まれた寝床たちの機微に分け入る。 モノと語りを通して台湾人の就寝の歴史を追う旅。
旧知のFさんから時々話には聞いていた彼女の「阿媽的家(おばあちゃんの家)」を、ある日ようやく訪ねることができた。台北育ちのFさんは、台湾中部の農村地帯にある母方の実家をそう呼ぶのだ。
この家の寝室には、聞いていたとおり、例外なく室の半分ほどに床が張られていた。床の高さは2尺前後。座ると足がぶらりと浮く。今は片付けられてしまったが、少し前までは畳が敷き詰められ、敷居と鴨居のあいだを障子が走り、壁には布団を収納する押入れと、どうやら床の間らしきニッチがつくりつけられていた。こうした床張り、揚床のことを、「總舗」 chonphoと呼ぶのだと家人に教えられた。
漢人は部屋を土間床とし、そこに「眠床」(家具としての寝台)を置いて寝るのではなかったか。もちろんそうだ。台湾漢人の家でもときどき伝統的な眠床を見る。嫁入り道具だから、装飾に満ちた豪華なものもあり、要するに「眠床」こそが文化的に正統なのだ。
ところが、日本による植民統治の半世紀間に、「總舗」なるものがほとんど台湾全土および澎湖群島の漢人の家はもちろん、台湾原住民の家にさえ波及していたことを、私たちはやがて知ることになった。同時に、畳・障子・欄間・天井・押入・床の間といった日本起源の機能的・意匠的要素は「總舗」の不可欠の要素ではなく、むしろ壁から壁までの部屋の間口いっぱいに揚床を張ることが、その不可欠の要件であることも。「總舗」は台湾語(閩南語系)の語彙だが、調べてみると1931年版の『台湾語大辞典』に初めて現れ、語義は簡潔に「床張り」とされている。新語であることを示す記号「新」が付されている。
この現象をどう理解すべきか。「植民地下の文化変容」などといった呪文を当ててみても、意味ありげなだけである。ひとつひとつの家の、内部世界・私的領域が日本的に変化する必然性とは何だったのか。寝る行為などそう簡単に変わるものだろうか。あるいはそもそも、これは「日本化」なのか、それとも別の規定が必要なのか・・・。いずれにせよ、「植民地」の相貌にはまだまだ私たちが光を当てていない側面があるのだ。
バーナード・ルドフスキーの『さあ横になって食べよう : 忘れられた生活様式』(奥野卓司訳、SD選書234、鹿島出版会、1999/Bernard Rudofsky, "Now I Lay Me Down to Eat: Notes and Footnotes on the Lost Art of Living", 1980) を思い出す。「Now I lay me down to sleep」という、就寝前の祈りの歌をもじったルドフスキーらしい書名は、古代ローマでは横になって食事をしたことを示している。そういえば漢人が眠床で寝るようになったのも古代中国の文化変容による。そして、副題にある「art of living」という表現は示唆的だ。art は「わざ/すべ」といったほどの意味であり、「芸術」にはそうした含意もあるのだ。総鋪をつくり、使う人々の「art」に即して理解を進めねばならない。
こうして、「寝床の植民地史」をめぐる私たちの旅ははじまり、やがて予想をこえた複雑さに漕ぎ出していたことに気づき、ついにはその複雑さの「底が抜ける」ような経験が待ち受けていた。何しろそれは「art of living」の海だったのだから。
*この研究は書籍としてまとめるべく準備中です。
*この研究は下記の助成金の補助を受けています。
- 2009年4月〜2013年3月、科学研究費補助金・基盤研究(B)(海外学術調査)「日本植民地における在来住宅・住様式の「日本化」に関する研究:台湾漢人住宅を事例に」(代表:青井)
- 2008年6月〜2009年3月、明治大学科学技術研究所若手研究「日本植民地期における台湾漢人住宅の「日本化」に関する建築史的研究 -<総舗chongpho>の臨地調査と類型化作業を通して-」(代表:青井)
- 2006年6月〜2007年10月、財団法人住宅総合研究財団助成研究「台湾漢人住居にみられる〈総舗 chong-pho〉に関する調査研究〜日本植民地期以降における〈眠床〉-〈和室〉の結合とその揺らぎ〜」(代表:青井) この研究助成の報告書は右のurlで公開されています。http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2007/0614-0.pdf